連載 吹奏楽とロック 2
ロックが『怒り。抵抗。』だという、意外なコメントで、私はロックに好奇心をそそられた。時間に余裕が出来たらロックを聴いてみて、、、 ロックとは何かを見極めてみたいと思った。
しかし、我々一年生に、そんな時間も余裕も、あるわけがなかった。
毎日、6時30分の朝練から一日が始まる。
そして、一・二年生は、昼練(昼休み練習)があって、放課後は、5分以内に練習場に走っていく。一年生が歩いていると、あとで殴られるのだ。
そして、終わるのが夜の9時である。これが一年中、休みなく続くのだ。他の事をする余裕など、とんでもない話で、いつも、目の前の事だけで精一杯だった。私たちの一年間は、コンクールのためにだけ存在していたのだ。
しかし、特別な日はあった。
1月1日の元日である。年に一度だけ、元日だけが、練習が休みなのである。
この日、一年生のパーカスの相棒から、家に招かれていた。あのロック好きの相棒である。
この、たった一日の貴重な休みを、思いのほか有意義に使うことができた。 ロックのLPレコードを聴かせてもらう事ができたのだ。
普段は、レコードを借りても、聴いている時間も体力も足りない。 だから、この時とばかり! 一日中、二人でLPを聴き続けた。
特に、繰り返し、しつこく聴いたのはレッド・ツェッペリンのセカンド・アルバムである。
Heartbreaker (Remaster)
https://www.youtube.com/watch?v=S_CYdTmj7lA
ツェッペリンは、ロックを理解するには、とても分かりやすいバンドだった。
ボーカルのロバート・プラントは音域がとても広く、高い声で叫ぶように歌うと、物凄い緊迫感だ。
私は、なるほど!と思った。 ロックボーカルが高い声を使うのは、このエネルギッシュな緊迫感を表現するためだと理解した。
そして、ボーカルも含め、サウンド全体が攻撃的なイメージをもっていた。
私のなかでは、、、 ロックとは「攻撃的な緊迫感」で表現されるジャンルなのだと納得できた。
また、ロックのエイトビートは、、、 ジャズのように脳の中でビートを刻む必要がない。ドラマーの方から、ガンガン私の脳内にビートを叩き込んでくる。 ロックは、何事も受け身になりやすい日本人に馴染みやすいかもしれない。
しかも、ツェッペリンのドラマーのジョン・ボーナムの叩き出すリズムとビートは、とてもグルーヴィーなものだった。
エイトビートのグルーヴ感。。。
白人のリズムがグレているのは、スイングだけではなかった。しかも、エイトビートは、リズムだけではなく、ビートそのものもグレているのだ。
グレているなんて言い方は失礼だ。。。 ツェッペリンは、リズムもビートも歌っていた!
さらに、、、 彼らのサウンドは、、、
軽快なリズムであっても、曲のイメージが明るくならない。。。 軽快になればなるほど緊迫感が増していくという、不思議なものだった。
後で分かったことであるが、、、 彼らの使っていたスケール(音階)には、ブルーノート(ミ♭・シ♭)が含まれていた。そして、このブルーノートを多用して強調する、サウンド造りをしていたのだ。明るくならないのはブルーノートの多用によるものだった。
この時期の、彼らのサウンドは、ブルースロックだったのだ。
私は、繰り返し、聴けば聴くほど、この新しいサウンドが快感になってきた。
Ramble On (Remaster)
https://www.youtube.com/watch?v=8oWfHcl94k4
このような彼らのパフォーマンスによって、、、 彼らのサウンドは、他にはない独特な雰囲気を醸し出していた。
かれらの独創性は、、、 今では、、、
世界中の若者が吸収してしまった今では、それほど珍しくなくなったが、、、 当時は、他にはない、個性的なサウンドであった。
もちろんこの時代は、ほかのバンドも独創性を持っていて、ひとつひとつのバンドが、それぞれのジャンルを形成してしまうほどであった。
この時代は、、、 ロックをやる者の条件に独創性があった。 サウンド面で、他にはない、自分達だけのカラーがなければ、商業主義とかイモとか言われて、さげすまれたのだ。
私は、「商業主義」でさげすまれるのは、行き過ぎだと思うが。。。
ミュージシャンは、、、 彼らを取り巻く、スタッフ他、沢山の人達を喰わせていかなければならないのだから。。。
それはともかく、1960~70年代は、音楽業界にとって、、、どのようなサウンドが売れるのか分からない時代で、、、
若いバンドが好き勝手をできた時代だった。
言い方を変えると、、、 音楽業界に、若い才能が潰されにくい時代であったということだ。
その後、三十年以上に渡って、業界が、売れそうなものしか相手にしないという、停滞期が続いたのである。。。
今の、インターネットの時代は、音楽業界に影響されずに、若いミュージシャンが活動できる時代だ。私は、この、今の時代が60~70年代の再来だと思っている。 いや、それ以上かもしれない。 次々に、新しいサウンドが生み出されている。
Guilhem Desq - Visions (Official Music Video)
https://www.youtube.com/watch?v=ts_zwTFXZgE
ところで、、、
サウンドが「攻撃的な緊迫感」であれば、、、
あとは、、、
世の中への批判や、
若者を抑制するようなモラルを、
攻撃する歌詞があれば、
「怒り・抵抗」がロックである!ことが、見事に成立する。
彼に、「レッド・ツェッペリンⅡ」の歌詞の和訳を見せてもらった。
私は、LPを聴きながら、全曲の和訳に目を通した。
しかし、、、
私は、、、「何なんだ、、、これは。。。」と、つぶやいてしまった。
この訳詞を読んでしまったために、、、 私の思考回路のなかに、大きな疑問が二つ発生してしまったのだ。
「レッド・ツェッペリンⅡ」のすべての曲は、様々な形の男女関係を歌っているだけだった。
「怒り」ようもなければ、、、「抵抗」しようにも、やりようがない。
「ツェッペリンは、ロックだよな?」
「そうだよ。。。」
「ロックは、怒り・抵抗だよな? この歌詞が怒りと抵抗に関係があると思う?」
「ん~~~~~」
彼は、壁を見つめて、、、 言葉は出てこない。
「怒り・抵抗」を歌っているものが、よそには、あるかもしれないが、、、 ツェッペリンの、このアルバムの中には一曲もなかった。
そして、もうひとつの大きなな疑問。。。
なぜ、攻撃的な緊迫感をもって、「男女関係」を歌わなければならないのか。。。
ミスマッチにも程度というものがあるだろう。。。
私は、この時、、、日本と欧米の文化は、これ程までに違うものなのかと驚いたのであるが、、、
後日、、、
欧米で育っていても、、、ジミ・ヘンドリックスなどの有色人種には、歌詞と曲相のミスマッチが少ないことに気がついた。
私には、、、 白人はDNAの違いから、脳の構造が、我々有色人種とは違っている、としか考えられない。
どうせ、英語の歌詞なんて気にしていないので、どうでもいいといえば、どうでもいいのだが。。。
「怒り・抵抗」の方は、、、 すっきりした答えを得るのに数十年の時を必要とした。このことは政治がらみで裏のあることだからだ。
いつの時代も、ミュージシャン達は、、、 愛と平和。 戦争に「怒り」。 権力の悪い面や固定観念や古いモラルの悪い面に「抵抗」するべきだと主張する。
本当に、そう考えているとは思えない連中まで、そのように主張する。彼らは、「人気」取りのために、そうするのだ。彼らは、「虚像」を大切にする。
クラシックなどでは、、、 音だけを商品にしているミュージシャンが多いが、、、
ロックなどの、エンターテイメントでは「虚像」が重要になってくる。
「愛と平和」でさえも商品になる世界なのだ。
彼らのしていることは、「夢」を売る仕事なのである。
1960~70年代は、、、
ベトナム戦争の最盛期であり、まだ人種差別が強く残っている年代だった。
だから、それらに「怒り」をもっている人達は多かったし、当然、「抵抗」する政治勢力もあったのだ。
そこで、、、 「ロックは抵抗だ!」などというキャッチコピーが生まれた。。。 ロック等のミュージシャンと政治勢力が結びついたのだ。
しかし、、、 本当に、「愛と平和」を強く願っているミュージシャンも、いたのは確かである。
一年生の、パーカスの相棒は、「怒りや抵抗を歌っているのもあるよ。。。フォークロックのボブ・ディラン。。。聴く?」
「聴きたいっ!」
「ミュージシャン達が、ボブ・ディランを愛と平和の旗手みたいに尊敬しているんだって。。。 この曲が代表作だよ。」と言いながら、『風に吹かれて』のレコードを聴かせてくれた。
私は、最初から和訳の歌詞を読みながら聴いた。
風に吹かれて ボブディラン 日本語訳付き2
https://www.youtube.com/watch?v=uGacX029CEQ
フォークロックと言われたが、、、 フォークギターの弾き語りで、、、 ビート感はなく、、、 歌にも緊迫感はなかった。 この曲は、普通のフォークだった。
そんなことよりも、、、 また、大きな疑問が発生してしまった。
歌詞の内容は、、、 戦争と、人種差別などの社会的な弱者を問題にしていて、、、 どうやら、言いたいことは、それらの問題に『無関心』な人に対する、批判を歌っているようだ。
このような歌は、、、 日本人の感性では、力強く主張するように歌うのが普通である。 しかし、ボブ・ディランは、、シラケたような、とぼけたような感じで歌っている。
ように、私には聴こえた。。
まさか、とは思うが、力強く歌うことが出来ないシンガーなのか。。。
私の感覚では、「怒り・抵抗」なら「攻撃的な緊迫感」をもって歌ってもいいくらいだと思う。
そう、ツェッペリンと歌詞を交換した方がいいのではないかと思ったが、、 それでも、まだ、問題は残る。
この歌の中では、、、 いくつも、問題提起をしているが、、、
すべて、「答えは、風に吹かれている。」だか「答えは、風の中にある。」しか言っていない。
どうすればいいのか、言いたくないらしい。。。
しらけた歌い方で「答えは、風の中ににある。」では、、、
まぁ、『無関心』でも いっか~。。。 と、なってしまいそうだ。
「これが、愛と平和の旗手で尊敬されてる?」
「そうらしい。。。」
『愛と平和の旗手』も、キャッチコピーなのだろうか。 エリック・クラプトンの『ギターの神様』というキャッチコピーもあるし。
「怒り・抵抗だって?」
「でも、いろんなものに、そう書いてあるんだよね。。。」
当然、、、 私が、フォークを「分からない」という事なのだろう。。。 きっと、ディランはすぐれたシンガーなのだろう。
グラミー賞にノーベル文学賞に、その他、数々の受賞をしているボブ・ディランの作品の『評価』にケチをつけている私の方が異常であることは明白である。
この期に及んで、、、「 世界には、巨大な裏がある。」と考えている私は、頭がイカれているに決まっている。
さらに、、、 若い人達に向かって、、、
「踊らされるな! 自分の感性を信じろ!」という、私のアドバイスは、百害あって一利なし であることは間違いない。
いずれにしても、、、 私は、、、 このブログに政治的なことは、書かない方針なので、、、
話の意味が分かり始める前にやめておく。
一月一日の夜遅く、帰り際に、、、
「ツェッペリンは気に入ったよ! どうせ、英語は苦手だから、歌詞は気にしない。。。 俺は、初めてロックを好きになった。ありがとう。」
この日も、私の人生のターニングポイントだったのだ。
Black Dog (Remaster)
https://www.youtube.com/watch?v=yBuub4Xe1mw